Infinity

scene3――――an artist



「実」


俺の本名を口にする人間は極僅かだ。俺の本名を知っている人間は数多いが、あえてそいつで俺の事を呼んでくる人間は本当に極僅かだ。理由は簡単、この俺様が許さないから。別に大した理由がある訳じゃないんだけれど――俺は何故か、俺の名前が嫌いだった。ひょっとしたらそいつを聞く度に、この俺が『おまけ』のように扱われていると感じてしまうからかもしれない。誰に?そりゃあ決まってるだろうよ。

「最近、帰ってくるの遅いみたいだけど……何かあった?」
兄貴がそう聞いてくるのは時間の問題だろうと思っていた。俺の予想より随分早かったが、投げられる疑問は予想通りだった。
「いや、別に……ちょっとあって」
誤魔化せるはずはないのにと心中で突っ込む声が響く。勿論俺は答えた後にすぐに後悔した。誤魔化すにもこれはお粗末すぎるだろうよ、サイバー君。
「そうか」
だが、誤魔化せてしまった。
兄貴は珍しくビールの缶を二本以上あけてテレビを見ていた。どことなく声もぼんやりしている。いつもは余裕綽々で、俺の前ですら基本的に自分の所謂「だらしねー」って姿を見せようとしない兄貴のこんな姿を見るのは、多分久しぶりの事だ。パルは隣で目を瞬かせてテレビに見入っている。兄貴の様子には――奴の事だから、例え気が付いていたとしても「それがどーしたウパ?サイバーは見かけによらず神経質なのウパねー」とか言って普通にスルーするんだろう。時々奴の母星(の、母国なんだろうなきっと)の文化が羨ましくなってしまう。
俺は冷蔵庫からサイダーを失敬して、二階への階段に足を掛けた。親父とお袋は家にはいない。兄貴が見習いを卒業して美容院の事実上の柱になってから、俺たちの両親は肩の荷が下りたとばかりに家を留守にしまくっているのである――その分兄貴と俺は信用されてるんだろうって考えているから、だからどうって言うつもりは全くないけれど。
「……後悔させるような事だけは、するなよ」
階段に両足を乗せきった時、テレビの雑音に混じって兄貴の呟きが聞こえた。

誰かにフラれでもしたのかなと、今になって思い至った。




「――熱心だね」

「え?」
「君。最近よく見るなと思って、声をかけてみた。迷惑だったかい?」
不審者の気配は全くなかった。変な兄さんだなあとは思ったけれど。
いきなり声をかけてきた男は、兄貴よりも少しだけ年下くらいの背格好で――つまり俺よりも背が高い――しっかり唾で囲った帽子と、くっきりとした黒縁の眼鏡が妙に印象深い。多分ジュンやシンゴ、そんでかごめみたいな人達と同種の人間なんだろうなと、俺は何となく見破ってしまった。で、彼の話から推測するに俺の見立てはおそらく間違ってない。
「あ……いえ、別に」
「今日は彼女、来て無いみたいだけど……買い物?それとも待ち合わせかい?だったら邪魔しちゃったかな」
「……いや、その、暇だったから……来ただけで」
夜は更けていない。それどころか俺の真上からは太陽の光が地表に降り注いでいる。のどかな駅前のロータリー広場は、休日のそれ特有の和やかな雑踏に支配されていた。広場の隅に佇む時計の柱のあたりから、子供達の歓声が聞こえる。

かごめの姿は、無い。

「期待してた?」
「……正直な所」
「休日にここに来たのは、初めて」
「多分」
何度か通り過ぎた事はあるが、それは来た事にはならないだろう。
「じゃあ、分からないか」
「休日には、やってないんですか」
「多分ね。彼女がここに姿を現わしてから――正確には僕が彼女の姿を見始めてから二週間になるんだけれど、休日にライブをすることは、基本的には無いようだ。ジュン君達だって、休日にはやらないだろう」
この人は純真の――ジュンの個人的な知り合いなのかもしれない。言われて俺はようやく、純真も路上ライブは週三のペースでしかやっていない事に気がついた。場所取りの問題とかも、色々あるんだろう。そう考え始めたとたん、俺は――いつものことではあるんだが――自分の馬鹿さ加減に、いよいよ頭を抱えたくなった。っつーか滅茶苦茶期待してんじゃん。何考えてんだよ俺。
「ああ、そう言えば。いきなり話しかけて名乗らないのもアレだったね。僕の名前は――」
「――ヒグラシ!」

彼は思いっきり鼻白んだ顔になった。ちょっとその表情がおかしくなって、俺は思わず吹き出してしまった。
ぱたぱたと足音が響く。キャスケットを被った男が姿を現した。脇にはスケッチブックを抱えている。

「あれ、取り込み中だった?ってゆーかその人誰」
「睦月君……いや、別にね、いいんだけどね……」
「あー知ってる、僕知ってるよ。最近駅前に良く来てるコでしょ。君、純真君の知り合いなの?」
揺れる尻尾に目が行くが尻尾を生やしている人間はそれなりに多いので突っ込む意味はないだろう。むしろその遠慮なく好奇に輝く視線が、クラスメイトのサーファー野郎をどことなく思い出させて無意識に眉を潜めてしまう。サングラスをかけてた事を喜ぶべきか、それともこの表情を見せられない事を嘆くべきか。
「純真君っていうか、彼女の知り合いみたいだよ」
「彼女?」
「とぼけるのもいい加減にする。――睦月、君が絵を描いてるモデルのコ。つまり睦月と彼は、所謂ファン仲間といった事になるのかな――ああ、ねえ君」
「はいはい」
「差し支えなければお名前を」
少し考えたが、いつも通り名乗る事にした。ジュンやシンゴ、かごめの『お仲間』なのだろうが、所詮俺にとってみれば行きずりの知り合いの――しかも野郎二人である。正式に名乗る義理など多分どこにも無い。
「サイバーって呼んでください」
「サイバーね。僕はヒグラシ。一応音楽家志望さ。君はまだ僕の演奏を聞いていないようで、それがちょっと残念。んで彼が、僕の友人の睦月。別に睦月を紹介しようと思って君を呼びとめたわけじゃないんだけど――良いタイミングだから紹介しておくよ。睦月君はこの駅前広場で絵を描くのが趣味な粋な青年なんだが、最近とあるモデルさんにご執心気味でね」
「別に執心している訳じゃないさ。ただ気が向いているから――」
「君のスケッチブックを今ここでサイバー君に見せても、それでも同じ事が言えるかい?」
「無理だね。素直に認めよう」
俺も大概自分ってやつはかなり変わった人間だと自認しているもんだが――ひょっとしたらそれって結構甘い認識だったのかもしれない。ついていけそうで、なかなかついていけない気配が何故かこの野郎共から感じられた。びみょーにもどかしくなってしまうのがまた悔しい。
「……つまり、睦月さんも……かごめちゃんの、ファンだと」
「ファンならきっとヒグラシもそうだろうね。だけれどきっと、僕も彼も君には勝てない」
「勝てない?」
「そりゃそうさ。君は彼女のライブには必ず顔を出してる。そしていつも、最前列に陣取ってる。だから『熱心だね』と声をかけてみたんだよ。せっかくだから、聴きたい事もあったしね――実はね、ジュン君が昨日僕に話してくれた事も少し気になっていて」
「ジュンが?」
何となくそこで合点がいった。多分、このヒグラシという青年は俺の本名を――少なくとも苗字くらいはジュン経由で知っているのだろう。つまりなにもかも了承済みな上で、偶然の出会いを演出したって訳だ。『睦月君』の乱入は、彼にとっても計算外の出来事だったに違いないが。

多分、それを聞きだすために。

「君は、彼女のどこに惚れこんだのかな」
「ほ、惚れこむ!?」
「惚れこむ以外にどの言葉を使えって言うんだい。芸術に惚れこむ、普通の事だろう」
「あ、……ああ」
「それで、君は彼女のどこに」
「詩です」
放った言葉は、存外に強い響きを持ってしまった。ヒグラシは瞳をぱちくりさせた後――睦月と顔を見合わせて、「なるほど」と呟いた。その反応がどうにも違和感バリバリで、つまりはどうにも不快で、俺は首を傾げてしまう。
「あの、一体何なんですか」
「――いや、やっぱり君は面白い感性を持っていると思ってね。睦月君、聞いたかい。彼は彼女の詩に惚れこんでいるそうだよ」
「……サイバー君、それは初めから」
「多分、そうなんだろうと思いますけど」
感嘆を隠しもしないキャスケットの野郎――睦月の声に、違和感が徐々に苛立ちへと変わり始める。何だよ、どうしてどいつもこいつもその事について驚くんだ。ジュンも、シンゴも、ヒグラシも、睦月も――そして、多分、かごめですら。
「僕やヒグラシも、彼女には圧倒された。とんでもない才能がいきなり現れたもんだってね。年格好は高校生くらいなんだろうなと推測出来ても、彼女は自分の身上を一切語らないし、表現しない。彼女の制服姿を、僕やヒグラシは見ていない。だけれど圧倒された。パーソナルな情報なんて、才能の前では一切に関係が無い事を、僕は改めて知ったわけだけれど――」
「……その、才能って」

「声だよ」

静かに、はっきりと断言したのは黒縁眼鏡。そんな答えが返ってくるのだろうとは思っていて――そしてその答えに、俺は何故かとてつもなく落胆してしまったのだった。そしてそれは、向こうも了承済みなのだろう。あえてそんな言葉を、彼らは俺に向けてきている。

試されている?
何に?
まさか。

「声……」
「あれは、素人の出せる声じゃない。あれこそ才能だって、僕やヒグラシは見せつけられてしまった気分になった――そして多分、ジュン君やシンゴ君もね」


だが君は違うんだろうと、睦月は柔らかく微笑して首をゆるりと傾げた。


視線に、とてつもない強さを、感じた。