Infinity

scene0――――in/out of the birdcage

『しばらく、お休みをいただいても宜しいでしょうか』
『私、良く分からなくなっちゃって』
『ええと、その事はよく分かってます。本当にありがとうございます。ご迷惑おかけしてしまう事も……ですけど、その……』

『私、多分、――さんのお望みになられる声が、出せなくなってしまって……』




――逃げ出したのは、黒いカナリヤ。



「煙草吸った?」
「……ごめん」
「謝る事じゃないわ……っていうか、むしろ謝るべきは私よね」柔らかく微笑んで、彼女は手元の楽譜を音を立てて捲る。わずかに指先が湿っているように見えるのは、コーヒーの湯気のせいか。
「チョコレート、用意したわよ。食べる?」
「いや、今はいい」
「疲れてる?」
ソファーに座りこむ自身を射抜くのは、どこまでも穏やかな暗茶の双眸。
「……うん」
「何か、苛々することでもあったの?」
「……うん」
「あなたの正直なところが私は大好きで大好きでたまらないのだけれど」かたりと、ソーサーの鳴る音。静かに、とても静かに響く。「少し妬けちゃうわね」
「どうして?」
「だってあなた、私の事で苛々しているんじゃないでしょ」
「……それは」
「ごめんなさい。意地悪な質問だったわ」慈愛に満ちた微笑み。彼女の前では抱いている思いが、全て馬鹿らしいものだと錯覚してしまう。所詮俺は単細胞な男だと、心の中で嘲笑う声がする。「……だけれど、あまり吸いすぎるのは良くないと思うの」
「お見通し?」
「どこまでかは知らないけどね」
くすり、ささやくこえ。
「――全く、君には敵わないな!」
「その表情は、私にだけ向けてくれるもの?」
「多分ね。四六時中鏡を覗く訳にもいかないから断言できないけど――それじゃ、始めようか」


――逃げたのは、空と同じ色をした檻。



携帯を折って二十分が経った。携帯はうんともすんとも音をたてない。もちろん光る事もない。時計を見上げて、私はベッドの上にあずけたままの身体に力を込めた。そろそろ、下から声が飛んでくる頃だ。――ほら。
右手を上に掲げる。袖はしっかりと伸ばされていて、その向こうが透かされて見える事も無い。今日は必要ないかなと身を起して、やっぱりサイドボードに転がっていたそれを右手首に緩く通した。今日行く場所はあの人の所ではないから。

――時間、間に合うのー?

「もちろん、全然大丈夫だからぁ」

階下に返す。
大丈夫も何も、ない。
時間は有り余っているのだ。籠の外の空には、何も仕切るものなど無いのだから。

私は鏡に向かって口元を吊り上げると、音を立ててドアを開いた。