Pre-reading


嵐の港の訪問者<後>


壁を殴る音は、嵐が窓ガラスを打ち付ける音にかき消された。骨に伝わる静かな痛みだけが、確かに今自分が壁を殴ったのだ――壁を殴ったのは確かに自分なのだという事を伝えてくれる。それなのに彼女が吐いた呆れたような溜息は、はっきりと耳に入るのが不思議だ。

振り返る。

相変わらずの静かな蒼い双眸が、何の言葉も伴わずにこちらを見つめている。
「……殴るなら、壁ではなくあいつ本人を殴れ。グレイン」
わずかな――しかし決定的に長い沈黙の後に、蒼い双眸の持ち主、リザイアはゆっくりと口を開き、言葉を発した。
「もう居ねえよ」
「だが、殴った処でどうにもならなかっただろう。あの金貨を仕舞わせただけでも、お前は良くやったと思うよ」
「――胸糞悪ぃ」
「それは私だって同じだ。……コーヒー、飲むか」
「頼んでいいか」
「勿論だ。私は……もうすっかり喉が乾いてしまってな」かたりと軽やかに椅子の足がアパートの木板に叩きつけられる。顎で切り揃えられた、薄く美しい金髪が、わずかに揺らめく。
厨房に立つリザイアの背中に瞳を細めてから、背後を見る。殴った壁には、幸いなことに目に見える跡はついていないようであった。――ほんの十数分前まで怒号が飛び交っていたアパートの一室は、今や恐ろしく静かだ。何だかとてもむしゃくしゃした気分になり、グレインは己の髪をまとめていた一本の紐を解いて――ばりばりと音を立てて、頭を掻いた。わずかな苦笑が、遠く風の音の響く中に混じる。
「ぼさぼさだ。せっかくの黒髪が台無しだぞ」
「悪かったな」
「……その格好も妙な色気があると表現できなくもないが、少なくともエステリアには分からない世界だろうな」言葉の中に苦笑を混じらせたまま、リザイアはコーヒーカップを二つ、テーブルの上に静かに置いた。髪は解いたまま、彼女に促されてテーブルへと戻る。先程までマキヤが座っていた席――つまり、グレインにとっては丁度真正面に当たる部分の椅子――に、リザイアは腰を下ろした。いつも二人で食事をする時にそうするように。

しばらくの間、無言だった。二人きりの時間の六割は、基本的に沈黙が支配している。グレインもリザイアも、言葉の奔流よりも実は静寂を好む性分であって――気まずいとか寂しいとか、そんな思いを二人の間の沈黙に抱く事は、ほとんど無い。ただこうやって向かい合ってコーヒーを啜っているだけで、先程まで胸の中に立ちこめていた激情の炎がすうと穏やかに引いて行く。そしてその感覚が、たまらなく心地良いのだ。きっと、彼女以外の女性と二人きりになっても、こんな感覚を伴った沈黙を抱くなんて出来ないのだろう。――そう確信できているから、今グレイン=アルトゥールという男はリザイア=フェニックスという女と共に在りたいと願っているのだ。多分、理由なんて基本的にそんなものなんだと思う。話をすると、何故か周囲の人間はとても目を丸くして「お前に限ってそれだけは無いと思っていた」とか言ってくるのだが。

「気持ちの悪い男だな」

そんなとりとめの無い事を考えていると、今度は純粋に笑み混じりにそんな言葉が飛んできた。伏せていた瞳を上げる。片手にコーヒーを持ち、もう片手で顎を支えながら、リザイアが微笑んでいた。
「先程まで殺気すら放っていたのに、もう笑っている」
「落ち着いただけさ。リザイアだって、俺に四六時中しかめ面なんざされたくねえだろ」
「それは……その通りだ。多くの人間が、そう言うだろうさ。……では、ようやくお前が落ち着いたところで、確認しておく」カップをテーブルに置いて、リザイアは一つ息を吸ったようだった。そんなに覚悟を決めたような表情を浮かべる理由など無いのに――思っても伝わらない事はままあると言えど、こんな場合だと妙な歯痒さを抱いてしまう。「行くのか」
「当り前だ」
「……それは、マキヤのためか」
「馬鹿言うな。だれがあいつのためなんかに命の危険を冒すか」
「では」
「……ああ」熱さと苦さが口の中で混じり合って、一瞬訳のわからない味が広がる。それがまた楽しいから、グレインはコーヒーを好んでいる。「ライズ家当主の嬢ちゃんは、間違いなく担がれてる。あいつの……私的なくだらねえ感情につきあわされて、死地に向かわされようとしている」
「私も、同じ事を考えていた。エステリアは……あれは、そういった面においてはてんで駄目な女だからな。私が優れているとも断じて言えないが」
「担がれてる事に気が付いてねえとも思えないが。……多分、あえて乗ってやってるんだろう。それが哀れみから出た理由で無い事を俺は祈りたい。……何だかんだで、世話になった姉さんだ。話を聞かされちまった以上は守ってやりたい」
「……お前も、そういった面においてはてんで駄目な男だな」
「よく言われる」
「好きだよ」
「あんがと。俺もハニーの事、好きよ」

飲み終わったコーヒーは、各々で片付けた。相変わらず外の嵐はひどい。エトリアの記念硬貨の代わりにマキヤから引きずり出したこの地方の共通金貨を使うには、相当勇気のいる天候だ。そもそも店がやってるかどうかすら怪しい。
「マキヤは、しばらく大陸に居るんだろうか」
「わざわざアーモロードからこんな所まで来たんだ。船代の元が取れるくらいまでは、この周辺で用事をこなすだろうさ」
「……流石に、昨日の今日でこの街を出るってことは無えよな」
「この天候で街を出るとしたら、それは絶望的な馬鹿だよ、グレイン」
「……そりゃ、その通りだ」ううんと伸びをして、頭を掻く。髪の毛を再び縛り直すだけの気力は、最早どこにも残っていない。「じゃ、明日朝一で宿に殴り込むとするかね。今度はれいっせいに、あいつから詳しい話を聞きださなくちゃなんねえ。今日はもうアレだ、いつ殴ってやろうかって事しか考えられなかったからな」
「マキヤ相手じゃ仕方がないさ。……あいつも、アレがあってから……いや、あまりこういう話はするものではないな」
「多分あいつには天性の煽り屋の才能があるんだろうぜ。アレのお陰でそいつが開花しちまったのさ。全く許せねえ話だけどな」

ああ、と曖昧に、ため息交じりに同意の言葉が返された。窓ガラスに指を滑らせ、グレインは灰色の雲の下に映る自身の黒い双眸を、己の右目一つで見つめ返した。この天気にふさわしい、とてもどんよりとした瞳だった。――そう思ったから、だから、気づく。


俺の瞳も、見事に死んでいる、と。




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