Pre-reading


嵐の港の訪問者<前>


港に嵐が訪れた夜、その男は現れた。
深緑のキャスケットから覗く金髪と碧眼は、この地の曖昧でどんよりとした天気はととにかく似合わない、所謂『健康的な』色を有していた。実際その青年の心身――特に心神――が健康であるかとは、一切の関係はない。ただ、青年の外見的な特徴に『健康的である』という形容詞が付け加えられた、それだけだ。事実彼の瞳は、最後にそれを見たときとまったく同じで――つまり、死んでいるのである。

「エステリア=ライズが?」
「ええ」

容赦のなく風雨の打ちつける、暗く狭いアパートの一室。部屋の中央の卓にはランプが置かれ、突然の来訪者と部屋の主二人、合わせて三人分の色濃い影を作っている。その影のうちの一人、即ち部屋の一人目の主グレイン=アルトゥールは、己の傍に座る部屋の二人目の主に目を向けた。ランプに照らされたその横顔は、いつも彼女が何かを考えるときにそう在るのと同じように瞑目されていて、一切の心象を推測することは不可能であった。
「……エイラさんの後任か」
「決めなくてはなりません。このままで行ったら、間違いなく『蛇』は空中分解する」
正面の死んだ瞳は、死んでいるくせに力だけは露骨なほどに有していた。己の一つの瞳で受け止めきるのは不可能だと直感的に悟り、救いを求めてもう一度傍らの女に視線を向けるが、未だ彼女は瞑目を続けている。溜息を吐くと、周囲の闇が微かに蠢いた。

「ハイ=ラガードに旅行中のあの嬢ちゃんじゃ駄目なのか」
「彼女にあるのは運だけです。資産も功績も無い」
「…功績はあるだろう。エイラさんたちの名誉は、あいつが居なければ回復し得なかった……」
「それは功績ではありません。なされるべきことがたまたま彼女によってなされた、それだけです」
「…ハイ=ラガードでも順調に研究を続けてるって、聞いたが」
「迷宮の限界を更新し続けているのは別のグループです――関係があるとは聞いては居ますが、少なくとも彼女はその中には入っていない。それに」来訪者は一度言葉を切り、キャスケットを被ったままの頭を横に振った。唾の下から、昏い瞳が微かに見えた。「……仮にあれを彼女の功績と認めるにしても、彼女には影響力なんて――我々『蛇』におけるものではなく、『蛇』以外の人間におけるものですよ――これっぽっちも有りはしないじゃありませんか。家を放逐された農村の娘に、何のコネと資産があるんです?」
「エイラさんだって農村の出身だ。金なんて持ってなかった」
「しかしコネはあった。ライズ家が彼に手を差し伸べなかったら、『蛇』の活動はスタートしていなかったでしょう」


「――どうして来たんだ」


男の言葉を遮るかのように、ようやくして傍らの女が口を開いた。キャスケットの下の瞳が訝しげに細められる。僅かながら彼の感情の動きじみたものがそこから感じられて、グレインは胸のすく思いがした。
「どうして……って」
「後任決定の会合が行われるなら、日程が判明次第参加する意向がある事は、エイラ=アーカムの死後直ぐにそちらに連絡したはずだ。我々は、我々の意思でもってしかるべき後任を選ぼう。そして、エステリア=ライズ嬢は確かにその資産と社会的影響力においては有力な候補の一人になると認識している。――わざわざ念を押しに来たのか?会合が行われるかどうかすらの意思統一も不可能なこの状況で?」
青年はキャスケットの唾に手をかけ、しばし黙した。口元が緩むのをどうにも抑えられない自身に小さな罪悪感を覚えつつ、グレインは両者の様子を片目を動かして眺める。来訪者は軽く咳払いをし、キャスケットの唾を少しだけいじって、そしてやめた。動揺などしていないとのアピールなのだろうが、もしも彼がそんな目論みを有していたとしたら、それは見事に間違いだと言わざるを得ない――明らかに青年は動揺していた。

流石だぜマイハニー、と一つの目を閉じて見せる。女――リザイア=フェニックスは、軽く鼻を鳴らした。彼女の口元が緩んでいるのを、グレインは見逃さなかった。
「ええ、そうです。確かに今、『蛇』は混乱している。……僕は次期『蛇』の頭領に、エステリア=ライズ嬢を支持しています。彼女にはライズ家の資産と人脈がある。無いのは功績だけだ」
「研究者としての資質については問わないのか」
「ライズ家はアーモロードに興った家である事をお忘れではないでしょうね?少なくともあの女よりは、研究者としての素養があると僕は確信しておりますが」
「………」
「お察しの通り、僕は彼女に『功績』を用意しなければなりません。ですから、今日ここに立ち寄らせていただいたんです。つまり」卓に肘をつき、青年は己の顎の前で指を組む。再びその死んだ瞳に、力が宿り始める。「あなた方に、アーモロードの迷宮探索を手伝っていただきたい」
「よく我々が時間を持て余していた事を嗅ぎつけたな、『狗』め。今度の主はアーモロードのお姫様か」
「何とでもおっしゃっていただいて構いませんよ」リザイアの挑発を、いかにも慣れていると言った風に青年はあしらう。もちろん、両者の口元に浮かんでいるのは深い笑みだ。おそらく、全く同じ意味合いを持った。

「……どうして、我々にその話を持ちかけたのだ?」
「それは――ええ、まあ、色々と理由はありますが」挑発的な光は崩さぬまま、青年は傍らの女からグレインへと、再び視線を戻した。どうして死んだ瞳はこれ程までに力を蓄える事が出来るのだろう。先ほどから、グレインはその事しか思考していない。「僕は、貴方をスカウトしたかったんです。グレイン=アルトゥールさん」
「俺がエステリアの知人だからか?…しかしそれなら、マイハ……リザイアだってそうだろう。どうして俺に限定しやがる、マキヤ」
「『エステリア嬢の知人』というのは、必要条件であって十分条件とはなり得ないのです――もちろん、必要条件だけでも今や十分に貴重な存在である事は理解しておりますよ」初めてその名を卓の上に出された青年は、全く同様の気配を見せることなくすらすらと言葉を紡ぎ続けている。「あなたはアーモロードで随分と海に鍛えられた、違いますか」
「……手前、自分が船動かせねえからって」
「あなたのその船乗りとしての天才的な素質は、アーモロードの迷宮とその周辺を探索するために必須になるだろうと僕は考えています。何しろ『功績』を創らなくてはなりませんから、そんじょそこらの冒険者たちよりも、僕等は優れたパーティでなければなりません。一番最初に全てを明らかにしてこそ、功績は絶対的な価値を得る」
そりゃお前の価値観においてだろうがよこのウスラ馬鹿――言葉が喉の先まで出かかったが、最後の最後にグレインはそれを呑みこんだ。傍らの視線を感じたからだ。言っても青年には何の意味も成さないだろうし、そして言わずとも傍らの女は彼がそう考えている事を、十分に理解していると。

――だから結局深い溜息を吐いて、椅子に座り直すに留めた。青年の満足げな笑みが、どこまでも不快だ。
「絶対的に優れたパーティってんなら、俺はマイハニーもパーティに入れるべきだと思うがな。リザイアが居なくちゃ俺は多分100パーセントの力なんぞ出せっこないし、それを抜きにしてもリザイアは強ぇぞ」
「それも分かっておりますよ。だから言ったんです、必要条件だけでも十分に貴重だと。彼女は――あなたは、その知識もさることながらとんでもない戦士だ。重装歩兵とはよくぞ言ったものです。今の僕は、あなたの戦闘力を必要としている」
「貴様に褒められるなんて、私も随分と低く見られたものだな」
リザイアの薄く蒼い瞳が、嘲りの意を持って青年に向けられる。「それはまた、失礼いたしました」と全く反省の色を感じさせない口ぶりで、彼は肩を竦めた。
「ですから、是非僕は――お二人を、アーモロードにお招きしたいのですよ。もちろん、無料でとは言いません。少しでも装備の足しにして下さればと、大した額ではありませんが、こちらを」
懐から取り出された二枚のそれ。重く、確かな存在感を有したそれが、嵐に包まれた卓の上にぶちまけられる。最早何も言うまい。誘われた時点で、断ることなど出来やしないのだ。


エトリアの記念金貨。
微かに赤茶がかった、エトリアの記念金貨。


それは間違いなく、あの女が持ち帰った――青年の”姉”、ミノリ=ササノセの私物だった。






Copyright(c) 2009 all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-