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初夏の訪れとともに


ざわりと、森が蠢いた。


吹き抜ける風はこんなにも軽やかなのに、どうしてこの足は重く、決して前に進もうとしないのだろう。足に任せてはいつまでもそこにたどり着けないことは、最早本能の領域と言ってもいい部分で直感できていた――果たして妖精とか精霊に『本能』と呼べる何かが存在するのかどうかはわからないが、でなかったとしても彼女の足を止めるのは所謂無意識の領域と呼べる部分であることだけは間違いなかった。何故なら彼女は、――そう、彼女自身は、こんなにも早く彼の場所に行きたいと、胸の鼓動はどくどくと規則正しくはね続けて、頬は紅潮し、唇は震えて――

「ただ単に怯えているだけじゃないか」

「――――!」
低く朗らかに響く声が、見事に冷や水をぶっかけてくれた。見開いた瞳が、背後に突然現れた影を映す。どこまでも色の薄い双眸が、どこまでも冷たい光を伴ってシルビアを見つめていた。
「何をおっしゃるかと思えば」
「怯えているんだろう」
「……全くの見当違いですわ」
「『彼は目覚めてなんかいないんじゃないかしら。私があの棺を空けたら、そこには哀れな死体が一つ転がっているだけなんじゃないかしら。もしも目覚めてくれたとしても、彼は私のことなんかさっぱり覚えていなくって、極上の獲物だとばかりにその牙を首筋に突き立ててしまうんじゃないかしら――嗚呼、その胸の銀の短剣は私が与えたものなのに!』」
数十年――いや、数百年前の役者のような節回しで、少年の姿をした老獪な風の精霊が嗤う。ざわざわと森が動き、初夏の風がシルビアの細い髪を陽光の下に躍らせる。だがその全てがたまらなく不快で、シルビアは精霊を睨み付けた。

「彼は真祖の力を受けた吸血鬼よ。死んでいる訳がないわ」
「それは間違っている。奴は既に死んでいる。死体が意思を持って動いているかどうか――結局はそういう話だろう?シルビア」
「――そんな話かどうかなんて、知りません」
「満月の一族だろうと尊い真祖の一族であろうと――吸血鬼なんてものは所詮動く死体に過ぎんよ。蘇って人間に戻ることも出来ない、ただの死体だ。塵に返るべきものが、塵に返らずに未だにそこに在る」
「……フィリ」
振り返る。薄い瞳ははっきりとした笑みを形作っている。
「何だね?」

「『まだ、吸血鬼がお嫌い』?」

「ああ、だいっ嫌いさ」肩を竦めて古城を見上げるその様は、全くいつもの彼と変わる部分がない。それこそ二百年前の昔にも、こんな会話を交わしたような――いや、違う。二百年の昔からずっと、彼とはこんな会話しかしていないのだ。そしていつも議論は平行線に終わる。分かり合えない、分かり合う必要がない。彼は風になる。風が彼女の髪を揺らす。跡に残るものは何一つ無く、彼女は古城を見上げて唇を噛むのだ。いつもは。
一歩足を踏み出す。傍らの風が動く気配を感じる。もう一歩前に踏み出す。傍らの風が流れる気配を感じる。
「……やっぱり気になるんじゃない」
「気になるだけだ。怯えてはいない」
「でも、気になるんでしょ」
「当たり前だ。お前がどうして奴にあそこまで入れ込むのか、私には未だによく分からんのだ」
「――あら、そんな事で?」
「そんな事とは何だ!」
「だって、その理由なら前にもお話したでしょう」段々進む足が、軽やかな音を立てて下草を踏み出す。下草の次に足の裏に当たる感触は、ひんやりとした石畳のそれ。「彼と私は、ほぼ同じ時間を生きてきました。年の近い者同士、話が合うのは当然の事じゃなくて?」
「だが奴は吸血鬼だ。人間である事すら棄て去った、忌まわしき化け物だぞ」
「言葉が通じて、その言葉で争いを回避できるのなら――それは化け物ではなく、ただの異形よ。……異形と言ってしまえば、私達も異形でしょう。まさか、精霊がこの世界の標準的存在だなんておっしゃらないわよね?」
「お前が何故この森の精霊を務め続けられているのか、私には甚だ疑問だ」
「私こそ、あなたが何故この森に留まり続けているのか、甚だ疑問ですわ」
それから、互いの間に交わされる言葉はなかった。だが傍らの風の気配は消えない。やがて目の前に立ち塞がる小さな木戸の扉に、シルビアは息を飲んで手を掛けた――が、何かに躓くような感覚と共に、ドアの向こうへと追いやられてしまう。振り向くと、腕を組んで風の精霊がシルビアを見下ろしていた。


別れた時と同様の――いや、それよりも少しやつれた表情で、青年は棺桶の上に腰かけていた。あまりにも普通に微笑み、あまりにも普通に片手を上げて。


「――ユーリ」
「今目が覚めた所だ。何年経った」
「……二百年とちょっと。はっきりと計算はしていないけど」
「二百年だ。世界は変わった。貴様の恐れていたモノは全て時の大河の彼方に葬り去られた――悔しいが、貴様の胸の刃はその役割を見事に果たしきった訳だ」
少年が進み出る。部屋に閉じ込められていた旧い空気は、あっという間に拡散した。
「フィリ公。貴方まで待っていて下さるとは」
「気色悪い言葉遣いなど聴きたくもないわ、化け物め」
「――まさか貴様と再び顔を合わせるなんて思ってもみなかったぞ、この腐れ外道精霊」
「それって私の事じゃないわよね!?」
「どうだかな」深みのあるテノールの声が、とても心地良く耳を打つ。彼の髪の色が銀に変じても、彼の瞳が紅く輝くようになっても、彼の肌から一切の生気が失われても――彼の蓄積された記憶と、彼のその声だけは、変わることなくそこに在る。
「いいわ。腐れ外道と呼ばれるのなら、その通りにしてみせるだけよ」
「それは私も賛成しよう。お前がこの吸血鬼に腐れ外道と呼ばれるようになれば――森はもっと良くなるだろうさ」
「それはつまり、この森が永遠にもっと良くならないという事だろうな?フィリ」
「――全く、違いないわ!今すぐ貴様が出ていけば、もっととは行かずとも少しは良くなるかもしれぬがな?」

差し込む初夏の日差しに、彼はその紅い瞳をとても愛おしそうに細めた。
その横顔を、彼女はある種の感慨と――ある種の感動をもって見つめていた。態度こそ変わらないままだが、風の少年の瞳も結局は同じ色を有していたのだ。


「――おかえりなさい」
「ただいま」

重ねられた手は白く冷たい。
だがそこにその手が存在しているだけで、彼女は嬉しかった。





――"Epilogue" the end.


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