街の何でも屋さん



午後のオープンカフェに現れた彼の顔は、いつもより少しだけ、本当に少しだけ青ざめていた。口元の不精ひげが、いつもより少しだけ、本当に少しだけ濃くなっているような、そんな気もした。
「…疲れてる?」
「……ああ、まあ……ちょっとな」
ぶかぶかとだらしなく口から煙を吐き出して、彼は朝から嫌な感じに曇ったままの空を見上げる。手元の灰皿には、もうすでに何本か煙草が打ち捨てられていた―――注文したコーヒーは、全く手をつけられずに湯気を虚しく燻らせているだけだというのに。
「そんなに大変なの?今のお仕事」
「そりゃあ……あーまあ、大変っつーか、大変だったっつーか」
「お仕事自体は、終わった……の?」
「終わらせねーとやべーよ、流石に」
被ったハンチングを外して、ばりばりと音をたてて頭を掻く。明らかに彼は苛立っていた。フケが飛ぶと迷惑だとベルは眉をしかめたけれど、たしなめる事は出来なかった。苛立ちの原因を知らない人間がその苛立ちに文句を言った所で、結局はどうにもならない。最悪相手の苛立ちの範囲に自分が加わることも予想できる。ベルは、眼前の彼の不機嫌が自分に向かう事だけは避けたいと思っていた。―――つまりは、嫌われたくないのだ。
彼はKKと名乗っていた。それはあだ名なのかイニシャルなのかは分からないが、とにかくKKと呼べば、彼は返事を返してくれる。何かと懐が寒くなりがちなこのご時世でどうやって上手く立ち回っているのかはこれもまた分からないが、彼は『何でも屋』をやっていた。頼まれれば―――それが可愛い女の子の依頼なら尚更―――とにかく何でもやって、その報酬を毎日の糧にしている。ベルが彼と出会ったのも彼に愛猫の捜索を依頼したのが切欠だったからで、単なる依頼者と請負人の関係で終わらなかったのは、偶然このオープンカフェが両者共通の『お気に入りの場所』だったからだ。何とはなしにカフェで再会してから、時々ベルはこうやってコーヒーを挟みながら自分の身の上話をしたり、大した内容もない世間話を彼としたりしている。

しかしそれだけだ。

結局それ以上の話題に踏み込む事はないのだ。自分の事もそこまで深く話せなかったし、当然KKの身の上など、ベルはほとんど知らなかった。彼女にとってのKKは『午後になるとこのオープンカフェに現れる町の何でも屋』であり、そこから一切進む事はなかった。何でも屋というけれど、具体的にどんな仕事を請け負っているのかとか、そもそもどこまでの範囲で『何でも屋』をやっているのかすら、彼は教えてはくれない。どうしてそんなに苛立つ必要があるのかとか、どうしてあなたの手はそこまで傷だらけなのとか、尋ねたいことは沢山ある。

でも、それを尋ねてしまったら。

その先を考えるのが怖くて、ベルは何も言えなくなってしまう。言える事は「お仕事お疲れ様、無理はしないでね」ぐらいの範囲に限られている。自分で、限ってしまっている。

―――つまりは、嫌われたくないのだ。



「もうね、わっかんないのよ!私、全然向こうの事知らないしぃ、向こうも全然私の事聞かないしー」
「あーあるある。あるよねそういうの。こっちは一杯自分の事喋っててなんかわかり合ってる気になるけど、みたいな?」
「そうそう!気が付いたら自分のことしかしゃべってないじゃーんって感じ!なんか気がついちゃうとすっごい気まずくなるからかどーかはしらないけど、その場じゃ気がつかないようにしてるんだよね。会話終わってから『ぎゃあしまった』って後悔するって言うかー」
「それ凄い分かるような気がする。うん」
こくこくと頷いてくれる友人二人に、思わず寄りかかって「ああもう大好き!」とか言ってみたりする。酒なんて一滴も飲んでいないのに、酔いつぶれる寸前のようなテンションだった。耳に入るはずの心地よいピアノの演奏は最早とっくの昔にぶち壊されている…のだが、他に客がいない事と彼女達が常連であることが幸いしてか、演奏者は苦笑を浮かべるだけで文句を飛ばしては来なかった。
「ベルちゃんはさあ、どっちかっていうと聞き上手なタイプだと思うんだよねー」ナポリタンをフォークに巻きつけながら声を挙げたのはリエだ。「そんなベルちゃんが喋ってばっかりって、ひょっとして向こうが凄い喋らせ屋だったなんてオチは無いの?」
「その線は考えたのよ。普通に喋ってて、ここまで私ばっかり……になっちゃうのってちょっと変だなあって。で、考えたら考えたでさ、やっぱそうなんだよね。喋らせ上手って言うか、なんか意識して私ばっかり色々喋るようにしむけてるかなーって所、あるのよ」
「分かってるなら話は早いじゃない。こっちも意識してどんどん聞きださなくちゃ」
瞳を輝かせて力説するリエに苦笑でしか返せなかった自分が少し情けない。
「情けない話なんだけど、それが分かっちゃうと逆に……やっぱり訊かれたくないのかなーって思っちゃうんだ。訊かれたくないのかなって。でもやっぱりこっちとしてはさあ、せっかく知り合えたんだから向こうの事もよく理解したいじゃない?」
「自分としてはもう訊きたいことが沢山あるのに、相手の事を考えると何も訊けなくなる?」
カルボナーラを口元に近づけながら、さなえが問う。ナプキンで少し乱暴に口元をぬぐい、ベルは首を横に振った。
「相手のことなんて、きっと考えてないのよ。私が…離れられるのが嫌だから。だけど、向こうの事ももっと知りたい…」
「ジレンマ、ってやつね」
よしよしと、さなえが頭を撫でてくれた。かたり、と皿が鳴った。目をあげると、リエのナポリタンが皿からすっかり消え失せていた。

…胃袋に収めた張本人の視線が、まっすぐベルに向かっていた。

「リエちゃん?」
「……リエはさあ、よく分かんないんだ。スギ君もレオ君もさなえちゃんも、皆リエに色々な事を話してくれてるから。多分ベルちゃんよりね、ずっと知り合った……お友達の事、理解できてる環境に居るんだと思う。だから、あんまり上手く話せないんだけど」
「………」
「誰でも、話したくない事ってあるんだよ。スギ君も、そういうもの一杯持ってる。スギ君の事全然理解できてないなあって思う時あるしさあ、スギ君もリエに理解されてほしくない所あるのかなあって感じる時もあるのね」
軽い溜息が聞こえた。さなえはベルではなく、リエの方を見つめていた。
「でも、リエはスギ君の事が好きだし。話してくれない部分もまるごと、スギ君と一緒に居たいと思ってるし。……ベルちゃんも、好きなんでしょう?その人の事」
「……ええ、好きよ」
「じゃあそれで良いじゃない。自分の好きな人はどこまでもミステリアス、でさ。話してくれないから好きになれない…ってのは、今のベルちゃんには当てはまらないみたいだし」
何も解決してないわよそれ、とさなえがたしなめるような声を出した。ベルもそう思ったのだけれど―――気が付いたら彼女は笑っていて、「いいの」とさなえを止めていた。
「……私が好きであれば、それで良い事なのよね」
「そうそう、そういう事」
流れているピアノの旋律は、随分と穏やかなものだった。初めて、気づいた。




肩から流れ出てくるどろりとしたそれが、手を染め上げてから随分と時間が経っている気がした。穴をあけられたのは肩なのに、何故か足がとてつもなく重い。軽い寒気が背筋に何度も走り―――その度に心臓が跳ねる。
『依頼』自体は上手くいった。だが、向こうの最期の反撃をよける事が出来なかった。今までも何度も経験してきた失敗だが、しかし今回は更に悪い事に、軽い撃ち合いになった際に携帯が巻き添えを食らってしまったのだ。普段ならばどこか人目のつかない所で医者を呼べば済む話なのだが―――しかし、公衆電話の撤去のスピードは凄まじいと聴く。このままあてもなく彷徨い続けたら、いずれ自分は出血多量で死ぬだろう。
…視界の先で、ちらちらと繁華街のネオンが瞬いている。あの場に出なければ電話は見つからないが、出ていくのには相当な勇気を必要とするであろう事はよく分かっていた。血を流した男を見て、事情を知らない人間が驚かないはずがない。加えて最近は都心の警備網が更に厳重になっている。下手に動いて、もし騒がれでもしたら……
「KK!?」
一歩踏み出した所で、いきなり驚かれた。こんな人前で名前を叫んでくれるなよこの野郎―――と返そうとした所で、ついに足が決壊した。


…………………
……………
………

「…それで、私はどうすればいいの?」
「とりあえず、携帯持ってるか?」
「あなた持ってないの!?」
「っせーな、ちょっと色々あったんだよ!……っ」
「ああもう死んじゃ駄目よKK!」
二重の意味で驚いていた。まず一つ、出会ったのが彼女だったということ。目の前で慌てふためく少女は、彼の決して多くない『普通の人』に分類される友人だった。つまりこんな状態を見せるのはとてつもなくまずい人間の一人なのだが…
「ほら、携帯出したわ。それで…えっと、119回していいの?」
「馬鹿野郎その番号だけは絶対に回すな!今から言うから、その通りに電話しろよ。向こうが出たら俺にかわれ」
が、彼女の混乱は彼が予想した方向には今のところ向いていなかった。それが二つ目の驚きだった。指先は震えていたし、顔は真っ青だが、しかし何故か彼女は彼が血染めになった理由は一切尋ねて来なかった。普通ならばまず出てくるはずの一言を、未だKKは耳にしていない。
ひんやりとしたプラスチックの塊が、ほほに押し付けられる。声が聞こえてきて、彼女が言われた通りに番号を回したのがわかった。適当に向こうの罵声をやりすごし、こちらの居場所を伝える。ぶちんと切れる音がして、プラスチックの塊は頬から離れた。
こちらをまっすぐに向いているのは緑の瞳だ。
「…お医者様、よね。呼んだの」
「ああ。ヤブで有名なんだけどな………てか、お前」
「何?」

「何も、訊かねえのか」

息をのむ音が聞こえた。瞳が見開かれた。少しの沈黙があった。
やがて少女は―――ベルは、一つ頷いた。何かを納得したような、そんな気配が感じられた。
「…とても大変なお仕事だったの、ね?」
「………ああ」
「頼まれたのでしょう?」
「………ああ」
「上手く、いったの?」
「…………ああ」

「私はね、好きよ」ビルの隙間から覗く狭い夜空を見上げて、ベルは言う。「頼まれたお仕事をきっちりこなす何でも屋さんって、本当に好きなの。憧れるわ」

「そうかい」
自然と口元が歪んでいた。唇を、いつのまにか吊り上げていた。
「だからね。体には気をつけて。無理は…しなくちゃいけないのかもしれないけど、でも」
「わかったよ」
もう少しで呼びつけた医者が到着する。「そろそろ帰りな」とベルに告げて、KKは身を起こす。耳元で一言彼女は囁いて、そしてネオンが未だ輝き続けている街へと消えていった。

―――待ってるからね。『街の何でも屋さん』。


「話さしてはくれねえ、ってか」
こちらにやってくるエンジン音をどこか遠くに聞きながら、KKは一人ごちた。結局少女は何も尋ねないまま、しかし彼を待っていると言ったのだ。どうやって誤魔化すかを必死で考えていた己がまるで馬鹿みたいに思えた。……実際馬鹿だったのだろう。人を見る目が足りていなかったのだろう。ひょっとしたら彼女になら、巻き込むことなく自分をさらけ出す事が出来るかもしれない。
「好き、か……」
言われたのはひょっとしたら初めてだったかもしれない。少なくともこちらの事を何も知らない人間に言われたのは、間違いなく初めてだった。
(有難い、んだろうなあ)
次に会った時は、例えば自分の好物ぐらいは喋ってみよう。そう思って、KKはゆっくりと瞼を閉じた。







―――"Accept me,accept you" the end.





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